Mr.マリックの「ハンドパワー」や「来てます」っていいよね・・・というお話

投稿日:2023/08/02

Mr.マリックと言えば両手を開いた「ハンドパワー」のポーズ。

「種も仕掛けもございません」・・・
手品・マジックではお決まりとも言える定番のフレーズだ。
しかし僕はめんどくさい人間だから思ってしまうのだ、
「いや種も仕掛けもあるだろうよ」と・・・。

別に手品やマジックが嫌いだから難癖をつけたくてそう言っているわけではない。
凄い手品を見たら純粋にすごいなぁと思う。
だからこそ、種や仕掛けが気になってしまう。気になってしまうけど見破れない。だからすげーなぁとなるわけで。

つまり、種や仕掛けがあるから手品なのだ。
もし「ただの紙を一万円にします!」みたいなマジックに種も仕掛けもなかったら、そのマジシャンは一生食っていけるだろう。
第一、種も仕掛けもナシでそんなことが出来る人間は絶対マジシャンになんかならない。
むしろそんなことが出来ると周囲にバレたら大変なことになるから、絶対に人前ではやらないだろう。法にも触れるだろうし。

当然そんなことはみんな分かってる、分かってる上で「種も仕掛けもありません」と前置きしておくことで「本当ぉ?」と思わせる、それが様式美であることも分かってる。
(かのマギー史郎は先述の一万円札のマジックで客から「偽札を作っている!」と警察を呼ばれたとか聞いた、そういうマジで分かっていない奴もいるみたいだが)
でも何度も言うが、種も仕掛けもあるのだ。その前置きは嘘なのだ。
嘘を真実のように見せるからこそのマジシャンなのかもしれないが。

そういう誰もが普通気にしないことを気にしてしまうのが僕の悪い癖・・・だけどだからこその発見もある。
それがMr.マリックの独特のスタイルだ。

この記事は12分ぐらいで読めるらしいですよ

僕が子供だった頃のマジシャンたち

僕が子供の頃に人気だったマジシャンといえば、トランプを口から出すやつで有名なふじいあきら、同世代の子は結構あのグッズを欲しがったであろう「耳がでっかくなっちゃった!」でお馴染みのマギー審司、「てじな~にゃ」のフレーズでお馴染みの子供兄弟マジシャンの山上兄弟・・・などなど。

他にも「サプライズ」のセロ、「コンプリート」のDr.レオン、スプーン曲げてた頃のメンタリストもといメタルアーティスト(当時)のDaiGoだとか・・・
色々印象に残っているマジシャンは多いですね。冒頭で難癖を付けているように見えて結構マジック好きだったんでしょうね子供の頃の僕。

個人的に特に好きだったのがムッシュ・ピエール
おそ松さんのイヤミのような「ザマス」口調に決め台詞の「トレびあ~ん!」、口髭はマジックで描いている・・・手品ではなくペンのほうのマジックで。
そんなどう見てもイロモノでしかないビジュアルや胡散臭い喋り方ながら、その確かな実力とのギャップ。
もしかしたら僕にとっての「ギャップ萌え」の原体験は彼だったのでは・・・かどうかは置いといて、とにかくそのキャラクター性からは考えられない実力者なのが幼心ながらに刺さったのだった。

僕の思う、手品師・マジシャンの相違点と共通点

「手品師」と「マジシャン」の違い

こうやって振り返ってみると、これまで挙げたマジシャンは二つのタイプに分かれる。
その二つを僕は「手品師」か「マジシャン」か、と頭の中で分類している。

先に紹介したふじいあきら、マギー真司、山上兄弟は僕の中で「手品師」。
親しみやすいキャラクターやマジックだったり、そういったどことなく明るい印象を受ける感じが彼らからは感じられる。
少なくとも当時の僕の記憶ではそういったイメージなのだ、彼らは。

一方でセロやDr.レオン、DaiGoは「マジシャン」の印象が強い。「イリュージョニスト」と言い換えてもいい。
どことなくミステリアスで神秘的・・・彼らからはそんな印象を受ける。
名前がカタカナやアルファベットだから尚更そう思うのかもしれないが、正体の分からない感じもまたミステリアスさを醸し出している。
実際はDr.レオンとDaiGoは日本人だが、なんというか、一体どこからやってきたのか分からないような・・・そんな正体不明の感じがした。それが名前や芸風のせいなのかは分からないが。
これもあくまで僕の幼少期の記憶の話で実際そうだったかまではハッキリ覚えていないが、とにかく僕の中ではそうなのだ。

詳しくないので。実際の「手品師」と「マジシャン」に明確な線引きがあるかどうかはわからない。
だが、この二つの分け方の言わんとしていることは少なからず伝わると思う。

決め台詞や代表的な手品を持つキャラクター性

そして彼らは全員決め台詞やキャッチフレーズ、もしくは代表作と言えるマジックのどちらかを必ず持っている印象だ。
決め台詞・キャッチフレーズであれば「てじな~にゃ」「サプライズ」「コンプリート」、マジックで言えば「口からトランプ」「スプーン曲げ」、その両方の性質を持つ「耳がでっかくなっちゃった!」

僕が子供のころ見たマジシャンの中には、彼らより凄い腕を持ち衝撃的なマジックをした人もいたかもしれない。
でも今もこうやって、特に調べなくてもソラで名前が言えるぐらい、もしくは名前こそ忘れてしまったが決め台詞や代表作を覚えていてネットでそれらを調べればすぐ出てくるような彼らは、すごく僕個人としても印象的に残った、そして大衆的にも人気になったマジシャン達だった。
マジシャンとして名を残すためには実力だけでなく、決め台詞か代表作、どちらかを持っておかないと厳しんじゃないか。そう感じた。

ピエールの持つ「うさんくささ」

では、僕の好きだったピエールはどのように分類するか。
これが結構難しい。

先程の手品師・マジシャンの二分類ならそりゃどう考えたって彼は前者、手品師の側だ。
だが、親しみやすい明るいキャラクターの一方で、謎の男でもある。
彼は自称・フランス人。「おフランス」からやってきたと主張しているが・・・それが真実かどうかは火を見るよりも明らかだ。彼のWikipediaにも「栃木県足利市出身」と無情にもネタバレが書いてある。
しかしそれでも若干の"出自不明"感は感じさせられる。フランス人ではないにせよこんな芸風の男が一体どこからやってきたのか、気にはなるにはなる。
そんなミステリアスや神秘的と呼ぶにはまったくもって相応しくないのだが、奇妙奇天烈摩訶不思議・・・とでも例えようか、そんな感じ。

そういった彼の特徴を言いかえると「胡散臭い」という言葉になる。
種や仕掛けもございません、よりも遥かに嘘だとハッキリわかるフランス人設定の男。
これを胡散臭いと呼ばずしてなんと呼ぶ。

そんなうさんくさい彼だが、だからこそ僕がやけに印象に残っている節はある。
まだマジックを始める前の段階から「なんなんだコイツは」と誰もが思うだろう。この時点でまず印象に残る。
そしてその嘘にまみれた設定とは裏腹に、真実である確かな実力を見せる。そこでなお印象を残す。
最後に、我々が驚いている中で彼はキメ顔でポーズを取りながらこう言うのだ、「う~ん、トレびあ~ん!」と。
見る前、マジック、見た後。三度に渡りこれでもか!と印象を残そうとする。そういうスタイルだから、僕も今なお彼のことを覚えているのだ。
彼の持つうささんくささは決してマイナスな意味ではない、それどころかとてつもなく大きな武器。
嘘と真実の狭間の世界で生きるマジシャンにとって、うさんくささは一つの重要なファクターと言えるだろう。

Mr.マリックという、ミステリアスさとうさんくささを内包したレジェンド

さて、ここからが本題。
冒頭でも名前を出したMr.マリック
彼もまた、僕が子供の頃に超有名かつ人気だったマジシャンだった。
最も、僕が生まれる前からそうだったが。

だが、幼少期の僕は彼のことをミステリアスな「マジシャン」の模範ともいえる「マジシャンの中のマジシャン」だと思っていたのだ。
日本人だということはわかってはいるが、黒いサングラスをかけその素顔は謎に包まれている。
髪も白っぽくなっている部分があって、スーツなどの正装で決めているイメージがあるマジシャンとは似て非なるちょっと変わった服装。
「一般人どころか他のマジシャンと比べても明らかに違う存在」・・・。それがマリックに対する第一印象だった。

彼は手品師・マジシャンの分類であれば間違いなくマジシャンであり、まさに僕の中の「マジシャン」というイメージ・概念を形成した人物だった。
・・・だったのだが。
大人になった今は思うのだ、「めちゃくちゃ胡散臭いじゃねーか!」と。

悪魔の証明「ハンドパワー」に夢を見た

マリックは自身のマジックを「超魔術」としている・・・していたらしい。
彼の行っているのは手品でもマジックでもなく超魔術なのだ。
確かにその超魔術というフレーズは僕も聞いたことがある。

だが、マリックといえば超魔術よりも「ハンドパワー」の印象が強い。
そのハンドパワーという概念がまさに今日僕が一番取り上げたい事柄であり、すごくいいなぁ・・・と思う概念なのだ。

「種も仕掛けもございません」は明らかにウソである。種も仕掛けもなくマジックが出来るのは実在するのか分からない、真の超能力者だけだ。マジシャンは種と仕掛けありきでマジックをするのだ。
しかし、マリックは種や仕掛けでマジックをするのではない。
Mr.マリックはマジックを成功させると、お決まりのフレーズを放つ。
「これが、ハンドパワーです」と。
・・・そう、彼は種や仕掛けではなく、持ち前のハンドパワーでマジックを行うのだ。

ただ、大人になって冷静に考えてみると、さも「皆さん御存知のハンドパワー!」みたいになっているが、これはとてつもなくいい加減でアバウトな表現ではないか。
ハンドパワーとは一体何なのか、ということが一切我々には分からない。
じゃあ一体何を持ってハンドパワーなのか。
答えられるものはいないだろう。
そう、実は我々にとって御存知の概念じゃあないんですよ、ハンドパワーって

あれは中学生の頃だっただろうか、親友がNHK教育の名物番組にしてその番組の主役である「ストレッチマン」に対して、彼の言う「ストレッチパワー」とは一体何なんだよ、とツッコんでいた記憶がある。
体操を終えたストレッチマンは、負荷をかけた部位を示しながら「ストレッチパワーが溜まってきただろう?」と問いかけてくる。
当時親友はそれを「それはストレッチパワーじゃなくて単なる乳酸だろ」とキレッキレのボケ(ツッコミ?)をかましていたのだが、今の僕なら親友に対して「アドレナリンかもしれないぞ?」と返していただろう。
だが真相は闇の中。そもそもストレッチマンはストレッチ星からやってきた宇宙人なのだから、本当にストレッチパワーなる力が溜まっているのかもしれない。

Mr.マリックもストレッチマンと同じだ。
例え実際は種や仕掛けがあってマジックをしていたとしても、それが彼がハンドパワーを持っていないことの証明にはならない。
そしてマリック本人が概念、その正体を明かさないハンドパワーという謎概念はどう頑張ってもその有無を証明する手立てがない。悪魔の証明だ。確かめる術がない以上完全に否定はできないのだ。

だがそれがいい。
他のマジシャンならば、種や仕掛けがないといいつつ種や仕掛けは実際ある。超能力者ではない限り。
だがハンドパワーはあるかどうか分からない以上、本当にそのハンドパワーなる力で超常現象を起こしているのかもしれない・・・という可能性は捨てきれない。
そういう「夢」を見させてくれるフレーズがハンドパワーなのだ。

現に子供の頃の僕は夢を見た。
「ハンドパワーすげぇ!」
と。
他のマジシャンとは違う。Mr.マリックは超魔術なのだ、ハンドパワーなのだ。
オンリーワンの力を持っている・・・実際は他のマジシャンと同じこと、同じようなことをやっていたとしても、そういう特別感を子供の頃の僕はマリックに感じていた。

タネが分かっている手品ほどつまらないものはないだろう。
「すごーい!どうなってるの?」と思うから面白いのだ。
そう考えると、ハンドパワーも「よくは分からんが、なんかすごいパワー」。
マジックの面白い理由と、ハンドパワーが凄そうに見える理由はまったく同じなのだ。
マジックを面白いと思う人なら、ハンドパワーという概念が謎に包まれていても自然と理解できる、と言い換えてもいい。
だから多くの人々がハンドパワーに魅了されたのだ。

「ハンドパワー」は誰もが納得せざるを得ない第三の概念だ

そんなハンドパワーという概念だが、どうやらマリックはデビューしたときからハンドパワーを売りにしていたわけではないようだ。
彼のWikipediaによれば、元々は客から「ハンドパワーが出ているのか?」と聞かれたのがキッカケでハンドパワーというフレーズを会得したらしい。
そしてある日のショーで、自らの「超魔術」を巡って超能力肯定派と否定派が一触即発のムードになったところを、「ハンドパワーです」という説明で両者をなだめた。
以来、ハンドパワーは彼を象徴する言葉となったのだ。

超能力肯定派も否定派も黙らせた「ハンドパワー」という概念。
種や仕掛けがあるのか、ないのか、というマジシャンにとって禁断の問いに対して、マリックはまったく新しい第三の概念であるハンドパワーだ、という説明を使い「そのどちらでもない」という可能性を示したのだ。

白か黒かと聞かれて、白黒ハッキリさせるでも、その中間のグレーでもない。全く別の色を提示したのだから、白派も黒派も折れるしかない。
だって自分が押し通したい主張でも、受け入れ難い相手の主張でも、どっちでもないのだから。

何度も言うが、ハンドパワーが実際何たるかはわからない。
だが、超能力か?そうでないか?と言われたときに「ハンドパワーです」と返されたら、確かに「そうか・・・ハンドパワーなら仕方ないな・・・」と誰もが内心ちょっとした妥協のもと納得してしまう、そういった言葉の魔力を感じてしまう。
もしかしたら、その魔力こそが実は本当のハンドパワーなのかもしれない・・・

「来てます」の役割と「ハンドパワー」とのシナジーの高さ

マリックのハンドパワーと同じく専売特許なのが「来てます!」だ。
これもまあ、ハンドパワーとまったく同じなのだが、一体何が来ているのか見ている側としてはまったく分からないわけで。謎概念だ。

じゃあハンドパワーと全く同じなのか?と言ったらそうではない、「ハンドパワー」と「来てます」には別々の役割がある、そう僕は感じる。
「これがハンドパワーです」と彼が言うのは、マジックが成功した後の話。
一方で「来てます!来てます!」と言うのはマジックの最中
このマジック中に言う点が「来てます」の肝だ。

先程名前を出したストレッチマン。知っている人はあの番組を思い出して欲しい。
ストレッチマンは体操を行うが、彼一人で行うわけではなく、彼が訪れた学校の生徒たち、そして我々視聴者に体操への参加を促してくる。
そうして体操の参加者に対して「このへんにストレッチパワーが溜まってきただろう?」と問いかけるのだ。
体操を行うことで、身体に何らかの影響が出るだろう。体温の向上、心地よい若干の疲労感、はたまた乳酸かアドレナリンか・・・。
その正体、何を指してストレッチパワーなのかは別として、とにかくストレッチを行った際に生じる変化のことを、ストレッチマンは「ストレッチパワー」と呼称しているのだ。
そして体操の参加者は思うわけだ、「あぁ、これがストレッチパワーなんだな」と。

実質ストレッチマンであるMr.マリックもやっぱり同じだ。
「来てます」と言っても何が来ているかは視聴者にはわからない。
だが「来た」結果引き起こされるのが「ハンドパワー」であることはわかる。
体操をする→ストレッチパワーが溜まる、と同様、来る→マジック成功=ハンドパワー炸裂!の流れ。
マジックが成功することにより、「来る」とは即ちハンドパワーを引き起こすための条件、何らかの力だ、ということを我々に認識させるのだ。
これにより、うさんくさいはずの「来てます!」に謎の説得力が生まれる。
ハンドパワーという力を引き起こすための手順・儀式として箔がつく。

さらに、「来てます」に説得力が生まれた結果、マリックが「来てます!」と言うと、このあと凄いマジックが成功するのか!?=ハンドパワーが炸裂するのか!?と期待してしまう。
「ハンドパワー」のおかげで「来てます」が凄いと思ったはずなのに、いつからか「来てます」のおかげで「ハンドパワー」が引き起こされるのだ、という逆転現象が発生する。
つまり胡散臭い「ハンドパワー」が与えたはずの「来てます」の説得力のおかげで、「ハンドパワー」にも謎の説得力が生まれてしまうのだ。
この卵が先か鶏が先かの相乗効果により、「来てます」と「ハンドパワー」が互いが互いを高め合っているのだ。

二つの決め台詞を使う完璧なタイミングと、マリックのバランスの良さ

また、ハンドパワーは最後の決め台詞。
もし来てますを挟まず、最後に「これがハンドパワーです」と言うだけならば、せっかく凄いマジックを成功させても途端にうさんくさくなってしまう。
「どうだこのマジックは凄いだろう、このマジックはハンドパワーという凄い力で引き起こされているんだぜー!」
・・・みたいないい加減な印象を受けてしまう。
まるで、すごく感動的な話を聞かされたと思ったのに、いきなり脈絡なく唐突に「その成功の秘訣はこちらの健康食品!」と言われる通販番組のようだ。これではハンドパワーの押し売りになってしまう。ハンドパワーいらないよってなっちゃう。

だが、途中で「来てます!」を挟むことにより、来てますの時点でこちらが「うさんくせー!」と思い、相手を疑惑の目で見つめることになる。
その状況で凄いマジックを成功させることで、「うさんくさかったけどすげー!」と驚くわけだ。

そしてここで満を持して「これがハンドパワーです!」と言えば、「なるほどこれが『来てます』の結果生まれたハンドパワーなのか!へー!」と、自然にハンドパワーの概念を受け入れてしまうわけだ。
そう考えると「来てます」を間に挟むのが何ともニクい、素晴らしい。

ピエールもこういうタイプだ。
彼の場合は見た目の第一印象から受けるうさんくささと、喋り始めたら口調もうさんくさいと、うさんくささマシマシW配合で序盤から始まるので、マジックが成功したときに「すげー!」となる。
ただマリックの場合、見た目だと「どちらだ・・・?」とギリギリ判断できるかできないかの微妙なラインを攻めている、と僕は感じる。
幼少期の僕は、彼をミステリアスな雰囲気のマジシャン、イリュージョニストだと思った。
だが改めて今見ると、うさんくささも感じる。
そもそもマジシャンだろうとそうでなかろうと、よくテレビで見かけるけどその素顔の知らないおっさんを「ミステリアス」と思うか?普通。どう考えたってうさんくさいだろ!

うさんくさい色物タイプなのか、それともガチミステリアスなのか・・・そう判断に困ったタイミングで繰り出される「来てます!来てます!」
ここで間違いなく思うのだ、「あっ、これはうさんくさい側の人だ!」と。
そして疑いの目を向けるようになった直後に、華麗なマジックで「すげー!」となり、先程失われたばかりのミステリアスさをしっかりと取り戻す。
最後に「これが、ハンドパワーです!」。彼への理解が最高に深まったタイミングで繰り出されるこの決め台詞で、成程これがハンドパワーなのか、これこそがMr.マリックというマジシャンなのか。そう思えるような流れになっている。
この塩梅の良さがMr.マリックの独自のキャラクター性を生んでいる。うさんくささとミステリアスさを内包したバランスの良さ、そんな彼の特徴を二つの名フレーズで緩急を付けわかりやすく伝えている。
なんとも素晴らしいプレゼンテーションだ。

受け継がれていくハンドパワー的概念

近年テレビ番組の「月曜から夜ふかし」から有名になったマジシャンGO(呉)という中国人マジシャンがいる。
海外出身マジシャンはそれこそセロもそうだし、それだけでミステリアスな空気は出せる。
だがGOもまたいい意味でうさんくささ、親しみやすさを持ったマジシャン、僕の基準で言うなら手品師だ。
中国人といえば、我々日本人の中には片言で話す「~アルよ」口調のステレオタイプな怪しい中国人像というのがある一方で、スポーツや所謂ビックリ人間的な「超人」的な印象、西遊記で描かれているような古代中国の神秘的な不思議の国というイメージもある。
GOは片言どころかかなりバリバリに日本語を話せるけどうさんくさい、でもマジックは凄いぞという中国観の欲張りセットのような良いキャラクターをしている。

じゃあそんな彼のどこがうさんくさいんだ、と言うと、彼の決め台詞でもあり、マジック中に度々口にする言葉「これが、運命です!」だろう。
運命―――。あまりにも言葉の意味が強すぎるが、その強すぎる言葉を使うが故のうさんくささ、そして「本当に運命なのか・・・?」と錯覚しかねない技術。

これはマリックの「ハンドパワー」に通ずる決め台詞だろう。
運命という言葉はあれど、それが本当に運命なのかどうか、そもそも本当に運命というものがあるのかどうか、それは誰にも分からない。本当に分かったら予言者として何らかの裏の組織で幅を利かせたり、現人神として崇め奉られるだろう。
でも結局我々一般人には分かりっこない、ひどく曖昧な概念だ。運命は信じるか信じないか、それだけの話でしかない。
GOの言う「運命」を信じるも信じないもアナタ次第です、というわけだ。

この「運命」という概念も、種や仕掛け、超能力の有無などといった概念とは似て非なる、競合せずかち合わない概念。
「種も仕掛けではなくこれは運命です」と言われたら、なるほど運命なら仕方ないな!と僕は思ってしまう。運命論者なのかどうかは置いといてGO本人がそう言っているんならそうなんじゃないの、って。

子供の頃見たマリックのハンドパワーから約20年経った、しかし未だにハンドパワーのような「何やら凄い正体不明の力」を持ったマジシャンが現代にもこうやって生まれている。
これからも彼のハンドパワー的概念は生き続け、後世のマジシャンたちに受け継がれていく・・・。
ならばその力はうさんくさくなく、間違いなく「本物」だよなぁ・・・。そう思った。

そしてMr.マリック本人も今もなお活動を続けている。
この記事を書きながら彼のYoutubeチャンネルを眺めていたが相変わらずすごい。

やっぱりハンドパワーはあったんだ!

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